日報

あるいは遺書

りゅう

2018年10月12日〜2018年10月29日までのメモ

アリストテレスが提唱した、継続的に改善する仕組みとしての正義。
結果ではなく、目的に主眼を置く。
個別の誤った選択や判断に関わらず、「正義を目指している」というプロセス自体を正義と規定する。
いずれは、細かな改善が積み重なって、最も相応しい正義の形に近付く。

 

ほとんどの行為は、何かから逃れ出ようとする動きだ。そうじゃないものがもしあるとすれば、価値がありそうな気がする。

 

シュレディンガーの猫について
情報とは、突き詰めて考えるとすべて物理現象である。物理現象とは、AとBの相互作用である(壁を押す者は同時に壁に押されている)。物体と物体の相互作用、すなわち情報の交換によって、エントロピーは局所的に減少する。エントロピーとは言い換えると秩序であり、エントロピーが減少することによって、この脳の認識の範囲内に入る。
「可能性と可能性が重なり合っている」という世界観は、平たく言えば脳みその認識の限界を示すものでしかなく、人は、関係性の中でしか何事も認識し得ない。結局のところ世界は、「自分と世界との関係性」の中にしか存在することはなく、それは対象が箱の中の猫だとしても同じ。

 

生きていく上で厄介なものにしか見えない「過剰な自意識」は、実は、大義に溺れ人との距離を見誤ること、つまり「正義という名の暴力」を抑制する役割を負っている。

 

音楽は、浮遊霊である自分が、自己をこの世になんとか繋ぎ止めるためのあがきでしかない。だけど俺は必死だ。だってこれしか必死になれることがないんだから。
あがいても、あがいても、自分の心の中から出られないということを知るだけ。それでも、めちゃくちゃな寂しがり屋だから、ずっとこんなことを飽きずに続けられるのかもしれない。
結果として俺は、何%かくらいは、同じ種類の痛みや悲しみに共振することができる。人生の中で何回か、大きな安心に触れたこともある。一応、そういう機能が正常に動作している部分がある。

 

母としては仕方がなかったのだ。時間もお金も、心の余裕も、圧倒的に不足していた。正常な愛を育む余地など、どこにもなかった。現状維持すらままならないような生活を、恐らく超人的な努力で維持していた。それに、歪んでいたとはいえ、全く大切にされなかったわけではない。その証拠に、俺は捨てられずに曲がりなりにも家庭の中で育った。
母を責めることには罪悪感が伴う。母に非はないのだと、落ち度はないのだと言ってはばからない部分が、心のどこかに確実にある。世間一般の常識と照らし合わせてみても、そう思うことは当然だと思う。
それでも、どうしても母から適切な愛情を得られなかったということにしておかないと、説明がつかないこともある。見捨てられ不安とか、感情のコントロール不能感について、原因のわからない強烈な空虚感について、自分自身がいなくなるような頼りない感覚について、無力感について。
考えれば考えるほど、辛いのはお前だけじゃない、お前だけが特別なわけじゃない、いつまで思春期の悩みを引きずっているんだ、くだらない、と言われているような気持ちになる(誰に?)。実際に、母親から何をされたか、どんな態度を取られたかなんて、個々の出来事についてはもうほとんど忘れてしまっている。
だけど、たった一つ、記号のようになって記憶の中に付着している出来事がある。
どうしてそうなったのかは知らないけど、9歳の時母親に包丁を持って追いかけられた。俺はとっさに風呂場に鍵をかけて閉じこもった。「出てこい」という母親の怒鳴り声、すりガラス越しの包丁の切っ先。
動悸がしてきた。
俺はこの感覚に対して、嫌だと思う。どんな理由があったにせよ、この出来事に対して、NOという強固な意思を持つ。俺は、だから、この出来事によって支えられている。苦しいのは自分だけじゃないとしても、俺はこのことを思い出すと苦しいし、自分だけが特別じゃないとしても、俺にとってはこの出来事は特別だという風に。
前に一度だけ、母とあの時期についてのことを話した。強く育ってほしいと思ってあのような教育をした、ということを言われた。
納得できるわけがない。
母には母なりの思いがあってそうしたのだということは、母の子供時代のことも含めて理解できるし、結局は母も色々なことを後悔している、それもわかる。
だけど、それで納得できるわけがない。
そして俺は、その納得できなさによって「生きている実感」を支えられている。

 

奈緒と仮設ではない本物の糸を紡いでしまったことが、今更ながら怖くなってきた。失った時の精神的苦痛を想像すると。
自分には人を愛する資格がない。これは生理的な感覚としての実感であり、論理で反駁できるものではない。この思いには多大な認知の歪みが入り込んでおり、むしろ人を愛する資格がないなどという思い込みによって身を滅ぼすであろうことがわかっていても、
現状奈緒との日々は、たくさんの疑問の答えを保留することで成り立っている。たくさんの軋みや歪みを無視して現状維持に徹することで成り立っている。
奈緒の考えていることはわからないけど、多分奈緒も同じじゃないかと思うのだ。本人がそれを自覚しているかどうかはともかく。
だから、お互いがお互いの影を愛し合っているんじゃないかと思うときがある。どこか噛み合っていない感覚。何かがずれている感覚。
だけど、そんな違和感すらも、たとえば表情とか、声のトーンとか、体温の温かさは、通り越してしまう。否応なく自分の中に入ってくる奈緒奈緒であるということの、固有性、そうしたものをしがみつくように愛してしまう。

 

忠 250

 

俺は、調子が良いときに調子に乗ることができるだけで、本当の意味で努力したりとかはできないんだなぁ
だから、もう突発力でいくしか