日報

あるいは遺書

りゅう

2018年8月10日〜2018年10月9日のメモ

「ポップス」とは、考えなくてもわかる良さ。何が優れているのか探さなくてもいい、生理的に気持ちよくしてくれるメロディー。その意味では、肉体的充足と似ている。俺は、肉体的充足を信じている。身体に根ざしているから。身体に根ざしているものは、地球に根ざしている。
願わくば、表面はポップスでも、その奥に、探せば探すほど新たな発見があるような重層的な深みを出したい。それが、人間味というものの気がする。一番奥に愛があればいいなと思う。

 

競争の奴隷とはなるべく関わらないようにしないと。

 

何してる時の自分が好きか考えてそれする時間を増やす

 

繰り返し、繰り返しが心地いい。一瞬だけ何者かになれるような気がする、自分が他人になる感覚は心地いい。すべてを通過してきたような気がする、気のせいかもしれないけど、気は全身に満ちている、可能性のように、細胞の中にひしめき合っている。音が好きだ。メロディーになりたい。たまにはケーキも食べたいし、どんどん流れていく、時の川で、鮎の手掴み。空が青い、パラグライダーになる。風船が膨らむ。興味深い。

 

素晴らしいものはたくさんあるという考え方で常にいる。そうすれば一つの物事に依存することもない。素晴らしいけど不都合があるものは簡単に諦める。安心するための方法論をたくさん持っていること。優れたサバイバーであれ。生きていくんだ。生きるのは楽しいぞ。

 

自分の嫌いな部分と
向き合う必要はない
嫌いな部分は かまってちゃんなので そう 向き合ってほしくて あーだこーだ言ってくるけど 向き合う必要はない

そうしてるうちに 嫌いな部分は 自分の体から離れていく 出て行く 次の街に行く

(*俺がツイッターで病んでるアピールしてたらグルパリさんが言ってくれた言葉です。覚えておきたいので、これも書いておきます。)

 

無理して自分のこと歌う必要はないぞ

 

さくらももこが死んだ。なんかすごく悲しくなった。日溜まりはいとも簡単に消えていく。今日はすぐに終わって、夜になる。

 

大森靖子のお茶碗を聴いたら、不意にさくらを好きだった時の感情がちょっとだけ甦った。こんな気持ちもいずれ完全に忘れる。実際にもう9割以上の気持ちを忘れているし、またお茶碗を聴いてももう思い出すことはないんだろうな。

 

どんなに不条理が溢れていたとしても、決して愛を否定してはいけないんだ。その覚悟を持たなくてはいけないんだ。

 

適当な答えを見つけてすぐ満足する奴が嫌い。葛藤のない正義は容易く人を傷つける。

 

奈緒奈緒であるということにどれだけ救われたかわからない。どれだけの生きる力を貰ったか。

 

台風がかすった日。ベランダで風を浴びながら雲の形が次々と変わっていくのを見ながら、風の通り道(トトロの曲)を聴いていたら、自分の中にいる神様にちょっと触れた。確かにいると思った。

概念に収まりきらない何か。生まれた時から、いや生まれる前から、その辺にずっと漂っているような。この時代の、この国に生まれたからこそ、感じられたんだと思う。

柔らかい森のイメージ。都市が覆い隠した大地。僕らはこの街がまだジャングルだった頃から。

 

音楽をやめたいと感じたとき、それは俺がやめようとしているんではなく、誰かが俺をやめさせようとしている。つまり、何らかの要因が俺にとってマイナスに作用してるわけだけど、でも、本当は誰も俺に音楽をやめさせることはできない。

自分の人生は自分で楽しくする。っていうことが常に念頭にあれば。

 

やらないとわからないことがあまりにも多すぎるから、そろそろやり始めたい。

 

俺にとっては「生活」が必要で、奈緒はそれを与えてくれている。

だから、俺も奈緒が必要としているものを与えなければならない。お金とか、一軒家とかを、手に入れる方向で考えなければいけない、ということになる。

シンプルに考えるとそうなる。

 

愛は、まず最初に、「断定」することの中にある。

確信のようなもの。

それは時に人を傷つけることがある。

だが、人を傷つけることも厭わない強さがないと、人を包むこともできない。

これはかなり複雑な構図だと思う。

痛いのは嫌だ。

だけど愛のない世界なんて耐えられない。

このことについて、よく考えたい。

 

「永遠」という概念の由来は、強い信念だ。

信念は、生活へと向かう。意志に基づいた、終わらない生活。

だから、人間だけが永遠という夢を見る。

信念は、その価値を無限にする。

 

怒るの苦手なのに怒りが湧くし、生殖器嫌いなのに性欲が湧く

 

生活のために必要なタスクをこなすことで、自然と幸せのホルモンが分泌される機能が、身体には元々備わっている。

太陽の光を浴びる、生き物とコミュニケーションを取る、その他諸々。

発達した文明の利便性は、この機会を奪う。太陽の光を浴びなくても屋内で仕事ができるし、会話は必要最低限でも給料は貰える。

脳みその発達に肉体が追いついていないっていうのは、こういうことなんだろう。

幸せという感覚に、しぶとく食らいついて、それが何なのか見極める必要がある。そうしないと、わけのわからないことをしだす。