日報

あるいは遺書

りゅう

旅行中に考えたこと①

週に5日も働いているとボーッとする時間が全然なくて困る。多少ゆっくりする時間が取れても、疲労が溜まってきていると前頭葉が働かなくなり、全部の時間をYouTubeに吸われる。YouTubeとかTwitterは次々見たくなるようにデザインされているから悪意があるなぁと思う。いや、悪意ではなく市場原理が働いているだけか。心なんていうのはほとんどが生理現象なのだから、市場原理に容易く支配されてしまう。
起きている時間ほとんど、何かに集中している間以外は常にだるいとかしんどいと思い、一生それを我慢しながら年を取り続けるしかないのかと思う。やりたくないことをやらなければいけないと感じているからである。でも、やはり、やりたいことをやりたい時にやるだけの生活は成り立たないだろう。風呂に入るのも歯を磨くのもめんどくさいけど、それをやらないことは不潔であり、不潔であることは自らを苦しめる。今の職場に不満があるからと言って、辞めるとなれば就職活動をしなければならないし、仕事をしないとしても、生活保護の受給や障害者手帳の取得の手続きには多大なる困難が待ち受けているに違いない。さもなければ飢えて死ぬ他ない。死ぬことも楽ではない。もう何もかも嫌だ、これ以上苦しむくらいなら今すぐ死にたいとは言っても、死ぬことには生理的に大きな苦痛が伴うのだから、自殺に対して大いなる情熱を持ち絶対に掴み取るというような意気込みでなければ、とても遂行できるものではない。結局やりたくないこととやりたくないことを天秤にかけて、どちらかマシな方を選び続けていくしかないのである。どちらを選んでも後悔するような選択肢のみを与えられて、答えを急かされて嫌嫌選べば、お前が選んだんだから最後までやれと言われるのである。何故こんな嫌な考え方しかできないんだ俺は……考え事するとすぐこうなる……人生に意欲を持っていないからだろうか……人生が全部バッドトリップなのか……
いや、でも、だからこそもしやりたいことがあるのなら、できるだけそれを選ぶ方向でやっていくべきという話であって、自分の本当にやりたいことなんてそうそう選択肢の中に現れるものではないのだから、まあ欲求なんて往々にして自分の意志というよりは何かにそう思い込まされているだけの場合も多いけど(俺が音楽で有名になりたかったのは学校でいじめられて自尊心が傷つけられていたので偉くなって見返したかったとか)、それでも何かをやりたいと願えること自体幸せなことなんだから、それが選択肢にある場合は選ぶことを躊躇うべきじゃないよ。買いたいものは買えばいいし、セックルなんてやればやるほどいいだろ、一度きりの人生なんだぞ。善悪ほどくだらないものはない、何故なら人を傷つけないためにある倫理がそれがあることによって人を傷つけているからです。でも、やりたくないことでも腹くくって取り組んでいくと案外楽しかったりすることもあったり、逆もまた然りだから、やり始める前のマインドなんてものは全く当てにならないよ。やりたいことをやりまくったら、今まで積み上げてきたものが全部台無しになって、そのことに後から気付いて激しく後悔するというケースもある。それは誰にもわからない。結局のところ、未来のことを決めつけて一喜一憂するのはやめて、やることやれ、ということでしかないのかもしれない。やりたいこともやらなきゃいけないことも全部同じテンションで淡々とやる、やり続ける。丁寧な暮らしというのは、これを完全に会得した状態なのかもしれない。欲望に忠実で奔放な人間が丁寧な暮らしを馬鹿にする風潮が増えてきてる気がするけど、全部嫉妬だと思う。だって自分の今の生き方に満足してるなら別に馬鹿にする必要はないのだから。他人の生き方に嫉妬しているような人間は静けさの中で生きる人種にはなれないだろう。丁寧な暮らしに嫉妬している俺は、丁寧な暮らしはできないだろう……
まあ丁寧な暮らしまでいかなくても、結局どれを選んだところでどうなるかなんて誰にも何もわからないのだから、「不意に訪れた嬉しいこと」だけを大切にして、後は適当になるようになるって感じでこなしていけばいいんじゃないですかね。