日報

あるいは遺書

りゅう

3/8(月)雨

9:30起きる。あまり良くない夢をいくつか見た気がする、でも全部忘れた。いつの間にか奈緒はいない。雨が降り続く。しとしと。コーヒーを淹れ詩を1篇書く。朝食は豆腐とバナナ。寒い。電気ストーブを点け上着を羽織る。昼食は野菜スープ(玉ねぎ、舞茸、大根の葉、ねぎの青いところ、卵2個)。はっとりから返信はないが既読はついたということをなすから聞かされ、なんじゃそりゃと思う。俺のは既読ついてないけど。まあ生きてるんだったら良かった。「元気になったら教えて、待ってるから」と打ったはいいものの勇気が出せずに送れず、そのまま消す。近頃仕事がバタバタしていたが、峠を越えたようで、久しぶりに早い時間に終業する。雨が上がっている。しばらく曲の練習。いい曲すぎて歌っているだけで満たされる。夕飯はハンバーグを作る。何かの加減でほっぺが落ちそうなほど美味しいやつができた。風呂でビル・エヴァンスを聴く。風呂上がりにキウイ、まだちょっと固くて酸っぱい。あっという間に湯冷めして手足が冷たくなる。

 

 

今日は一日、自分の見たい世界を自分で選ぶということについて考えていた。今目の前に広がっている世界を、自由意志によって選んで見ているのだと自覚すれば、実際はそうじゃないとしても多少無理矢理にでもそういう風に思えば、少しずつでも自分が存在したいと思える世界に近づいていくことができるのではないか。能動的な観察を繰り返し続けることで、見たいものと見たくないものに気付いていく。気付くだけでいい。そうして確固とした視座をいくつも積み上げていけば、完全にとは言わないまでも、実用的なレベルで自分を制御できるようになるかもしれない。静かな世界で生きたい。些細な幸せに、シンプルな喜びに、いつも気付いていたい。目の前の世界は、ただ無関心に存在しているわけではない。それが視界に入るということは、何かしら自分の中身と関係がある。喜びも、苦しみも、痛みも、自分で選んで体験したのだと言えるくらいの強さがあれば、すごい。本当に鬱の時にこういう考えでいられるかはわからないけれど……。