日報

あるいは遺書

りゅう

百万ドルトリオ

書くしかない。思ったことは逐一書いていかないと、思考回路がどんどん変な方へ落ちていく。軌道修正するためには、文字に起こして、現在位置を確かめる必要がある。人は行動でしか変わることができないということを如実に示していると思う。書くことが一つの実践になる。心の中身を現実世界に存在させることで、現実は少し書き換えられる。とりとめのない思考に苦しめられているなら、とりあえず書いた方がいい。少しは楽になるかも。

浮き沈みが激しすぎて、自分で混乱する。時期によって180℃真逆のことを言い出すこともある。昨日まで考えていたことに現実感を得られないこともよくある。自分が全くの別人になってしまったような気がして、自分の言ってることが信じられなくなる。他人から見たら別にそうでもないかもしれないけど。進んでいる感覚が得られない。大抵の人が持っているであろう人生が前に進んでいる手応え、のようなもの。だから、一歩先だけを見て、遠くはなるべく見ないようにして、淡々と行く。「もし自分がああだったら」とか人生にはない。今の自分にできることが全てだし、過去は常に取り返しがつかない。でもやっぱり、ちくちくと痛む。自分が言ってしまった間違った言葉も、投げつけられた酷い言葉も、何年も経っても未だに消せないこともある。後悔、自己嫌悪、トラウマ、それこそ星の数ほどある。え、脳みそどうなってんの?差し当たり必要なこと、たとえば今日買って帰るもののこととか結構よく忘れるくせに、ふっと思い出して嫌な気持ちになる記憶多すぎる。もういいじゃん5年前にバイトで客にキレられて号泣して早退したこととかいい加減忘れればいいじゃん(笑)記憶どうなってんの?良いことだけ覚えていたいのに。数で言えば間違ったことの方が圧倒的に多いな。それも、他人から見たらただの考えすぎなのかもな。そんなもんだよと言われたらそんなもんかとも思う。俺は自分のことが嫌いだ。それがどうした。お前が自分だと思っているものは本当は自分ではないんだ。本当の自分はどこかにいる。別に探したりしなくていい。死んだら会えるんじゃない?弱音ばかり吐いてしまう。でもこれは俺が本当に考えたことだから、それを見せる意味はある。自分が今ここに存在しているということを知ってほしいから。考えても無駄なことも、もう考えなくていーやって思えるようになるまでは、考え続けなきゃいけないの、ツライ。

覚えてはいないけど、俺は他の精子たちとの競合に見事打ち勝って卵子を受精させたことがあるらしい。それはとんでもない倍率らしい。奇跡かもしれない。いや、まあ精子に俺という存在の魂が宿るかと言われたら微妙だし、その俺は俺じゃない気がするけども。

俺は、こんな自分になりたいと思って、こうなったわけじゃない。誰が好き好んで好きな人を傷つけたりするか。言い訳の余地もないけど、止まらない時があるのは止めようがないから苦しい。元も子もないこと言うけど、自己実現を成功させた人って、そもそも最初から成功する理想を持てた人でしょ。なんというか俺の場合、理想を持つとかの以前に、解決しなければならない課題が山積みになっている。最近それがわかるようになってきた。でも何から手をつけていいかわからないしめんどくさい。人生前に進めたいけどどっちに向かって進めばいいかわからん。脳みその中は迷宮だ。普通の顔しながら誰もがこんな迷宮の中を彷徨っているのだろうか。だとしたらゾッとする。そもそもこの苦しみ自体が間違っている気がしてムカついてくる。こうしなきゃとかああしなきゃっていう思考パターンが多すぎるのか。自分のことを、実験用のモルモットとかネズミみたいだなとたまに思う。出口がないのに出口を探している気分。出口だと思ったら新しい入り口だったということは往々にしてあるし、ていうかそんなことしかない。まあ、そうか。脳みそが稼働し続ける限り、たった一つの答えに安住することはできないよな。全ての物事は変わっていかなきゃいけないんだから。残念ながら時間は過去から未来へと流れている。流れ続けている。ていうか流されているだけなのかな。迷宮の中を答えを探し求めて歩き回ってるように見えて、実は歩かされてるだけだったりして、馬の頭に人参ぶら下げるみたいな方法で。わからない。年取るとわからないこと増えてくるよね。なんで?こっちは必死にわかろうとしてるのに、何故わからないことばかり増える?もうちんぷんかんぷんだよお。下手な長考休むに似たりとかいう言葉あるらしい。うっざ。でも、だから、最近スピリチュアル的な思考に頼ることが多い。解決したい課題があるのなら、辛抱強く待っていればいつか、何かのタイミングで偶然が重なって、道が開かれるはず。そのセンサーというかアンテナみたいなものを常に立てておくように気を付ける。自分の意志が関与する余地がどこにもないとしても、選択を迫られた時に選択をするのは自分自身だ。そういうことになっている。自由意思ってなんだ??せめて、なるべく多くやりたいことをやろうね。

海辺のカフカに出てきた百万ドルトリオの大公トリオ聴いてみたら、マジでめちゃくちゃ良すぎてびびった。疲れてたのかもしれないけど、違う世界に誘われるようなくらくらする感覚を覚えた。ベートーヴェンの曲は大体そうだし、この時代の作曲家には結構広く当てはまるのかもしれないけど、曲の構成が大袈裟なくらい「感情!!!」という感じなので、平常心の時に真面目に聴くとうざったく感じる時もある、けど無になってしまってる時に聴くとなんとなく安心できる。温かみがある。生きてることって良いなって思う。作曲家が込めた感情の迸りが旋律の一つ一つに再現されているような気がして、クラシックあんまり詳しくないけどこの録音は一つの極致というか、耳の肥えてない自分でもそういう風に思う。
https://music.apple.com/jp/album/beethoven-piano-trio-archduke-schubert-piano-trio-no-1/269402734?l=en