日報

あるいは遺書

りゅう

変化していく街並、ひかり

過去と未来は、今ここにはないという点で同じだ。今ここにないものに思いを馳せることができるのは、この地球の上で人間だけだ。時間。記憶とは想像力のことであり、想像力は時を超える。時空を歪める。夢と現実に違いはない、1ミリたりとも違いはない。そんなことが本当にあると思う。この身体があるのと同じように、この意識がある。自分という名の印。現実を超えたものを知覚した時に初めて、本当にこの現実について語ることができるんじゃないでしょうか。外国に行って初めて自分の国について見えてくるみたいに。だからね、現実見ろとかいちいち言ってくる人のことは大体信じてないよ。それはこの世界と二重写しに、確かに存在している。薄皮をめくった向こう。言葉はいらない。たまには言葉を捨てよう。今目の前にある現実だけがすべてじゃない。単一の論理だけで説明できるわけがない。単一の正義だけで解決できるわけがない。移動しよう。変化しよう。ここじゃないどこかに。怒ったり、争ったり、意味がわからなくなったり、それらを引きずって、狭い檻の中に自分自身を押し込めるより、流れる水のようになってしまえばいい。自我なんて暫定的な印に過ぎないんだから。
現実を脱出するための方法論が必要だ。しかも一つじゃない。一つのものに頼らない。様々な脱出経路を用意する。それを誰でも使えるようにする。どこにいても。どこからでも、いつでも、そこに行ける。そういうものがあればいいと思う。そういう装置が。現実逃避と呼ばれても別にいい、ていうか無理して現実に立ち向かわなくたっていいじゃないか。どう考えてもどうにもならない出来事の方が多いんだから。

こんな悲しみや痛みは、ただ黙って目をつぶって過ぎ去るまで耐えるしかないのだろうか。つらい。俺は一人では生きていけないと思う。というか誰も一人では生きていけないし、一人で生きていけるとか思ってる奴は傲慢だと思う。それでも、どうしても一人になってしまう。たまに自分以外の人間が存在しないような気がする。みんなただ泡のように発生していなくなってしまうだけじゃんて思う。死んだ人のことは徐々に忘れていくしかない。永遠なんてないんだからさ。でも、心で覚えた記憶は、同じ気持ちになった時にまた思い出すことができるらしい。この世にいられる間は、仮に永遠という時間を設定してもいいよね。勝手だろ。愛しい人間たち。好きな人のこと本当に好き。ずっと好きです。今は忘れてることも、ちゃんと全部脳みその皺の中に埋まってる。たまにふと、なんでもないときに、大切な記憶を取り出してみたりして、そのことを実感する。だから、なるべく脳細胞を減らさないように、無理しないように生きていきたい。この世にいられる間は何度でも思い出すことができるんだ。

ご冥福がどうとか、そんな言葉は上手く言えないけど、流石に死んでまで地獄とかはないと思う。いや、あるわけない。断言しよう。断言しとこう。こういう気持ちを祈りと呼ぶのかもしれないけど、まあ勝手に何とでも呼んでくれって感じだ。安らかなどこかが、あればいいね。本当に。
こうやって気持ちを整理しながら無理矢理進んでいくしかないのだろうか。別に整理したくて書いているわけじゃない。ただ、自分の器から溢れてしまった感情も、ぜんぶ大切にしたいと思う。気持ちの整理なんかつくわけがないよ。割りきれない思いは、一生保留し続けていくだけだよ。